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by kohtaboy_gabihan
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憲法と安保
from 辺野古と高江に軍事基地は作ら..
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カテゴリ:戦争/ 軍隊/ 歴史( 8 )


憲法と安保

鳩山首相とオバマ大統領を宇宙へ!!
 まささん、率直で鋭い質問を投げかけて頂いてありがとうございます。まささんの質問に僕なりの意見を述べます。

・憲法は9条以外にも問題があるわけなので、9条を残してそれ以外を改善するならば問題ないのですか?

 ―僕は憲法9条を訴えながらも、憲法のことについてちゃんと勉強してこなかったことが情けないのですが、僕の知る限りでは、確かに憲法には天皇制の問題などがあります。

  なので、それらの条項を変えることで、人々の生活・生命がより保障されるようになるならば、9条以外の条項を変更することに異議はありません。

  しかし、来月10日に施行される国民投票法を制定した一連の動きは、かつての安倍政権の下、憲法を変えることで自衛隊を「軍隊」とし、戦争に積極的に参加しようとする中で起こりました。

 今の民主党の中にも、自民党と同じような改憲論者がたくさんいるので、憲法についてもっと国民レベルで議論していかなければいけないと思います。

 憲法は、国家の暴走を防ぎ、その国に住む全ての人々(在日外国人も!)を守るためにあるのだと僕は考えてます。それが、あの忌まわしい戦争から学んだことではないでしょうか?

・そもそも憲法がアメリカ主導で作られた事を理解した上での憲法改正反対を主張しているのですか?日本自身で自国の憲法を制定する事になぜ反対なのですか?

 ―僕にとって、憲法を誰が作ったかは問題ではありません。問題は、憲法の「中身」です。

  たとえ他所の国の人が作った憲法であっても、その憲法の中身に多くの人が賛同できるなら、それでいいと僕は思います。

  9条を含む日本国憲法は、他の国々から高い評価を受けています。もし憲法を日本人が作ったとしても、それが軍隊や戦争を肯定するものであるならば、世界を失望させることになります。

  「平和」は、人種や国籍を選びません。全ての人が享受できるものです。

・日本が攻撃された時の防衛はどのようにお考えでしょうか?

 ―この質問にはいつも違和感を覚えるのですが、逆に言うと、なんで日本は攻撃を受ける可能性があるのでしょうか?

  攻撃する理由もないところに爆弾は落ちません。攻撃を受ける可能性があるということは、日本はその相手に対し、攻撃される理由を作っていることになります。

  よく北朝鮮や中国が危ないとメディアは騒ぎたてますが、本当にそうでしょうか?北朝鮮や中国の脅威を唱える一方で、日本の自衛隊は年間5兆円も使ってどんどん軍拡しています。北朝鮮より遥かに強い軍事力を持っています。

  また、歴史にも目を向ける必要があります。戦争を含め、かつての日本は中国や朝鮮の人々に何をやってきたのか?

  帝国主義を謳い、アジアを侵略し、多くの人々の財産や生命を奪い、朝鮮の人々に対しては強制連行・労働までさせました。

  その日本が犯した過去の愚行を、今に至るまでちゃんと清算し、償ったのか?そうではないから、今も「靖国神社」に参拝する為政者たちがいるのです。

  それを棚に上げて、拉致問題ばかりを取り上げ、北朝鮮を危険国家扱いするメディアの論調は異常に思えてなりません。

  国家の国防について議論するには、まず相手国のことを知り、その間の歴史についてちゃんと勉強する必要があると思います。

ついでに米軍基地についても質問が。
・沖縄に米軍基地はいらない、と主張されてますが、それは全ての基地がということでしょうか?それとも現状がただ多すぎで一部は残しても構わないという事でしょうか?

 ―理想としては、沖縄にも日本にも世界中のどの国にも米軍基地はいらないし、軍隊なるものは一切あってほしくありません。

  ただ今僕が関わっているのは、あくまでも普天間基地の代替となる新たな基地建設の反対です。全ての基地を撤去するにはまだまだ多くの問題があります。

  たとえ普天間基地を含む嘉手納基地以南の米軍基地が返還されても、沖縄にはなお在日米軍の70%が残るわけです。

  これは多すぎとしかいいようがありません。

  沖縄の新聞にこう書かれていました。

 「教えてほしい。日米安全保障条約のどこに、基地を置く場所は沖縄でなければならないと明記されているのか?」

・もし全ての基地が不要という場合、他県にある米軍基地も不要ということでしょうか?

 ―その通りです。

・もし他県にも米軍基地が不要という場合、日米安保において日本はどういう役割を担うべきでしょうか?それとも安保は不要ということでしょうか?

 ―今年で日米安保改定から50年経ちましたが、日米安保の実態は「日米軍事同盟」です。このあり方自体を問わなければいけません。

 「日本の安全保障」のために日本は米軍に基地を提供していますが、米軍が実際にやっていることは、ベトナム戦争、アフガン・イラク戦争など他国の侵略ばかりです。

  米軍をかばう人達は「抑止力」をしきりに訴えますが、2001年に同時多発テロがあった時、次は米軍基地が狙われるかもという憶測が飛び交い、沖縄を訪れる観光客は激減しました。

  米軍が「抑止力」となっているのなら、沖縄は最も安全な場所であったはずです。なのに、実際はもっとも戦場に近い場所となりました。

  今年『どうするアンポ』というドキュメンタリーができましたが、この中で安保がどういう歴史をたどり、僕達の生活に影響を及ぼしているのかを丁寧に描いています。ぜひ見てみてください。

  『どうするアンポ』ブログ http://anpo50.seesaa.net/

・安保が不要なら国防はどうすべきでしょうか?

 ―『どうするアンポ』の中で言っていましたが、「日米軍事同盟」としての日米安保はやめ、日米友好条約に改めるべきだと思います。そして、日本は「対話外交」にもっと力を入れ、他国との緊張関係を和らげ、自衛隊を縮小させていくべきです。

  そうしない限り、戦争がいつまでも僕達の生活・生命に黒い影を落とし続けます。「正義の戦争」など存在しません。
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by kohtaboy_gabihan | 2010-04-27 00:53 | 戦争/ 軍隊/ 歴史

軍隊と刑務所

 昨日、ツタヤで『ショーシャンクの空に』というDVDを借りて観ました。この映画の内容は、妻と愛人殺しの罪を着せられ、終身刑を言い渡された主人公が、刑務所内で様々な行動を起こし、長い歳月をかけて脱獄するというものです。

 その映画を見て驚いたのは、刑務所の内部が軍隊のそれととてもよく似ていたことでした。この映画はフィクションですが、それにしてもアメリカの新兵訓練所を撮った藤本監督のドキュメンタリー映画『ONE SHOT ONE KILL』とかなりダブって見えました。

 ※2月に僕のブログで『ONE SHOT ONE KILL』について書いてあるので、良かったら読んでみてください。
 http://henoko.exblog.jp/9939275/

 僕は、軍隊と刑務所(警察)というのは本質的にほとんど同じだと考えてます。一つは、どちらも「正義は悪を倒す」という大義名分の下で、暴力を「合法的」に振るうことができる点。もう一つは、どちらも外の世界と高いフェンスや壁によって分断されている点。

 『ショーシャンクの空に』の中で、50年間服役していたおじいさんが仮釈放を言い渡され、外の世界に出ていく場面があります。しかし、人生の大半を刑務所の中で暮らした老人が一般社会に溶け込めるはずもなく、結局追い詰められ自殺してしまいます。

 実際の世の中でも、一度出所した人がまた罪を犯して刑務所に戻るということがよくあります。一度刑務所の生活に慣れてしまうと、社会に戻ることは容易なことではありません。映画の中で、「終身刑は人を廃人にしてしまう」というセリフがあります。

 しかし、これは刑務所だけでなく、軍隊でも起きています。軍隊という絶対服従の中で生活していると、やはり軍隊から出た時に外の世界に馴染むことができない人は大勢いるようです。イラク戦争から帰還した兵士達が自殺したり、身内を殺してしまうという事件もたくさん起きています。

 沖縄でも、米軍犯罪が一向に減らない原因はそこにあります。いくら「綱紀粛正」や「厳重注意」を唱えたところで、本質的なものは何も変わっていないからです。

 僕達の世界からは遠くにあるようで、実は自分達の生活と近い関係にある軍隊や警察や刑務所。「平和で」「明るい」世の中にしたいと思うなら、そんなダークな世界をもっと深く理解する必要があると思います。

 『ショーシャンクの空に』は、刑務所内の暴力を告発するための映画ではありませんが、『ONE SHOT ONE KILL』と併せて見ると、両者の暴力性が鮮明に浮かび上がります。そして今も、その現実は続いているのです。

 映画の中で、主人公のアンディは、希望を失った人達が溢れる刑務所を変えようと、立派な図書館を作ったり、突然音楽を刑務所内で流したりと、様々なことをして囚人たちの心を変えていきます。

 大切なのは、「心を失わないこと。希望を捨てないこと」。

 日米両政府は普天間基地の「県内移設」にこだわっていますが、希望を持ち、心を持って抗議していけば、きっと新たな道は開けるはず。

 
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by kohtaboy_gabihan | 2010-04-13 13:51 | 戦争/ 軍隊/ 歴史

沖縄の桜

 今沖縄の桜は見ごろを迎え、県内各地で咲いています。沖縄の桜前線は、本土とは違い、北から南へと南下していきます。
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 沖縄の桜は、寒緋桜(かんひざくら)または緋寒桜(ひかんざくら)と呼ばれる種類のもので、本土のソメイヨシノほど花は多くありません。花の色は濃いピンクで、下向きに咲きます。

 ぱっと見、梅の花??と思ってしまいます。

 僕が住んでいる名護市の名護城(なんぐすく)公園でも先週末は桜まつりが開かれ、通りには屋台が並び、大勢の人で賑わっていました。
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 以前、大学時代の先生が沖縄に来られた時に聞いた話によると、沖縄の桜は大和から持ち込まれたものだそうです。その目的は、沖縄の人々に「日本人」の美意識を植え付けることでした。しかし、大和から一方的に強制されたわけではなく、沖縄の人々も大和の人から差別されないために、自ら望んで桜を植えたそうです。

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 これらの写真を見ると、「まさに!!」とうなずいてしまいます。そして、一番上には神殿があります。
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 石碑には、この桜は昭和3年に地元の青年団によって植えられたと刻まれていました。昭和3年(1928年)と言ったら、「大日本帝国」が帝国主義思想の下で、他国への侵略に突き進んでいた時代です。

 沖縄では、皇民化教育の下で自分達の言語や文化などがことごとく踏みにじられ、「日本人」になるように強制されていました。そうした歴史の中で、沖縄に桜が植えられたのです。

 沖縄の人々が自ら望んで植えたとしても、その胸中は複雑だったに違いありません。自分が生まれた土地の文化を自ら否定し、他所の文化を取り入れることに、屈辱や恥じらいの念があったんじゃないかなと思います。

 「当時の人達はどんな想いでこの桜を眺めていたのだろう?」と想像を膨らませてみると、ただ「きれいだなぁ」と感嘆していた自分に、歴史がずしりと重くのしかかってきます。

 この桜を眺めながら、「日本人」の美意識を取り入れようとした沖縄の人々は、大和の人々の差別にどれだけ苦しんできたのか?そして、その差別意識がまだ基地問題の中に残っている現在。

 今は「日本一」早い桜の名所として、沖縄の人達や観光客が大勢訪れていますが、この桜が背負ってきた歴史に目を向けることも大事じゃないかなと思います。

 沖縄の桜は、大和から持ち込まれたけれど、沖縄という全然違う自然環境と長い月日の中で、大和の桜とは違う桜に生まれ変わりました。

 沖縄や大和の人々の意識も、日々変わる世界情勢と歴史の中で、少しずつ変わってきています。

 揺れに揺れる普天間基地問題。一体どんな花が咲くのでしょうか?
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by kohtaboy_gabihan | 2010-02-05 14:22 | 戦争/ 軍隊/ 歴史

伊部岳実弾射撃演習阻止闘争の碑

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 先週、辺戸岬から東海岸を通って高江に行く途中、この碑を偶然見つけました。

 国頭村(くにがみそん)の安田(あだ)集落への入口の手前にありますが、県道の脇のあまり目立たないところに立っており、我ながらよく見つけたもんだと思いました。

 この碑は、1970年12月22日に突然、米軍から31日に実弾射撃演習を行うという連絡が国頭村に入り、それに怒った村民たちが必死の思いで阻止したことを記念して建立されました。

 辺野古のテント村で、このことは聞いていましたが、この碑を見て、改めてその歴史を知ることができました。

 以下が碑文の全文です。

★伊部岳実弾射撃演習阻止闘争碑
 この地は、沖縄を占領しているアメリカ合衆国が北部訓練場として使用し、更に、実弾射撃演習場併設を通告し、強行に演習を実施しようとしたことに対し、地域住民・村民・支援団体が必死の決意で実弾射撃演習場設置を阻止した場所である。
 1970年12月22日、国頭村長あてに伊部岳を中心とした北部訓練場内に実弾射撃訓練場を設置することを琉球政府(現沖縄県)を通して電話通告してきた。
 26日に国頭村議会は即、抗議決議を採択し演習阻止を明確に宣言した。同日に安田区では演習場設置反対評議会を結成し、住民ぐるみの動員体制を整えた。午後には米海兵隊員が31日から射撃演習をはじめるとの情報を村に伝え、緊迫する中で30日を迎えた。
 国頭村字安田・安波・楚洲の3集落では小中学生も阻止行動に参加した。一方、着弾地点には、子供、高齢者を除き最大動員して座り込み、抗議・阻止の旗を掲げ、火を焚き、煙の合図で強固な阻止体制が完了したことを告げた。
 31日を迎えた。国頭村長を先頭に村民をはじめ支援団体約600人が発射地点近くで実弾射撃阻止大会を開き、着弾地点の北側に70人、南側に200人の行動隊が座り込み実力阻止、有刺鉄線を乗り越えて発射地点に突入。大混乱の中で、重軽傷者を出しながら体を張って米軍権力に対抗して阻止実現。「やったぞ!米兵は帰れ!」歓声と怒りの声が深い豊かな山にこだました。
 持ち込んだ砲弾はヘリで持ち帰り、米軍は正式に実弾射撃演習の中止を発表した。
 こうした決死の思いで村民、県民の生命、財産をはじめ、豊かな自然、水資源、ヤンバルクイナやノグチゲラなどの貴重な動植物を守ることができた。
 “森と水とやすらぎの里”といわれる山原の自然を守り育てようとした先人達の偉業を伊部岳実弾射撃演習阻止闘争碑の存在を通して、平和、命の大切さを学習し、後世に語り継ぐために、この地に伊部岳実弾射撃演習阻止闘争碑を設置した。
                             2009年8月15日 
                             国頭村制100周年記念

 辺野古のテント村で聞いた話では、阻止行動の前は男たちは威勢のいいことを言っていたけど、実際の阻止行動で体を張ったのは女性達だそうです。

 いざ射撃訓練が始まるという時、女性達は有刺鉄線を破り、体の大きい米兵達に向かっていったそうです。やはり、沖縄の女性はたくましいです。

 沖縄には、アメリカや日本の力に屈し、米軍の好き放題にやられてしまったという歴史だけでなく、その強大な力に立ち向かい、身を投げてまで阻止したという歴史もあります。

 米軍基地が次々と造られ、米軍に手が出せないという歴史ばかりでなく、沖縄の人々が必死に抵抗し、米軍に勝ったという事実もあるということを、もっともっと伝えていく必要があると、この碑を見て感じました。

 そうしたら、きっと、今回の辺野古や高江の基地問題に関する見方も大きく変わるのではないでしょうか?

 こうした住民の勝利の歴史があるからこそ、60年以上も居座る米軍に対し、今もなお、抗議の声を上げ続けることができるのではないかと思います。

 いよいよ今週の8日には、「辺野古への新基地建設と県内移設に反対する県民大会」が行われます。大会に参加できない人も関心を持って、それぞれの場所から声を上げ、鳩山政権を後押しして、アメリカ政府を突き動かしていきましょう!

 きっと不可能ではないはず。だって、勝利の歴史があるんだから・・・
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by kohtaboy_gabihan | 2009-11-05 23:06 | 戦争/ 軍隊/ 歴史

辺戸岬

 先週、辺戸岬に行ってきました。

 風が強く、荒波が立ち、その光景は、沖縄ののどかな浜辺とは全く対照的でした。
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 その辺戸岬に、「祖国復帰闘争碑」があります。
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 これは、1972年5月15日に沖縄が「日本」へ復帰した際に、建立されたものです。

 その碑文には、「祖国復帰」を果たした沖縄県民の喜びの裏に潜む、苦悩や願いが見事に書かれています。

 1952年のサンフランシスコ「平和」条約により、アメリカ軍の過酷な支配に苦しむことになり、それに耐えながら、やっと「祖国復帰」を達成することができましたが、沖縄県民の意に反し、沖縄は日米両政府の軍事強化に利用されることになってしまったのです。

 その状態が、復帰後37年たった今でも続いていることを想うと、日米安保の犠牲を強いられている沖縄の人々の苦悩が胸に染みます。

 しかし、残念なことに、その碑文を読む人はほとんどいませんでした。皆、碑の前を素通りし、裏の展望台で記念撮影をして帰って行きました。

 その光景は、6月23日の「慰霊の日」の前に平和の礎に行った時、慰霊をしているおばあの横で、ガイドが修学旅行生に対して観光地のような案内をしていた、あの時の光景によく似ていました。

 沖縄の人々の気持ちや願いというのは、目の前にあるのに、目を向けられず、素通りされてしまう。だから、沖縄の人々は、戦争が終わったのに、未だに戦争に苦しめられている。

 そうさせてきたのが、日本であり、アメリカであり、それを支える人々なのです。知らず知らずのうちに、僕自身もその中の一人になっていたのだと、沖縄のことを知るうちに気付きました。

 沖縄の人々が自らの意のままに、安心して暮らしていけるようになるためには、やはり、基地がなくても生きていける「自立」への道を創っていかなければなりません。

 そして、その道を沖縄に住んでいない人々も一緒になって創っていく必要があります。

 一体どんな道を創ることができるのか、僕もよく考えますが、なかなか一本道ではいかなさそうです。

 でも、だからこそ、沖縄らしいユニークな道が創れるのだ、と思っています。
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by kohtaboy_gabihan | 2009-11-04 13:08 | 戦争/ 軍隊/ 歴史

9.29 県民集会

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 先月29日に、那覇市県庁前の県民広場で、2年前に行われた「教科書検定意見撤回を求める県民大会」での決議の実現を求める「9.29県民大会決議を実現させる県民集会」が開催されました。

 集会は、平日の午後6時から行われたにもかかわらず、多くの人達が集まり、会場は熱気を帯びていました。主催者発表では、1000人以上の市民が集まったそうです。民主党をはじめ、各政党の代表者がそれぞれ演説をし、駆け付けた市民はみな熱心に聴いていました。

 この教科書問題は、2年前に文部科学省が高校の歴史教科書の検定において、沖縄戦の記述から、「集団自決(強制集団死)」について日本軍の関与があったことを削除するという検定意見を出したことに端を発しました。

 このことに怒った「ウチナーンチュ(沖縄人)」たちは、2007年9月29日に抗議大会を開きました。11万人以上の人々が集まり、復帰後最大規模となる県民大会となったのです。その大会において、国が教科書検定意見を撤回し、「集団自決」の記述を直ちに回復するよう、決議を行ったのです。

 なぜ、これほどまでに沖縄の人々は怒ったのか?

 それは、教科書検定意見が、沖縄の人々の歴史や平和に対する思いを深く傷つけたからです。

 アジア太平洋戦争は、沖縄の人々が起こしたわけではありません。戦争を起こしたのは、日本軍です。当時、沖縄は「日本(大和)」に植民地支配されていたがゆえに、戦争に巻き込まれたのです。

 そして、沖縄でのアメリカ軍と日本軍の地上戦により、多くの人々が命を失い、沖縄は焼け野原と化してしまったのです。戦争が終わって残ったものは、深い悲しみと絶望感だけです。

 沖縄の人々は、そうした思い出したくもない、つらい記憶をずっと胸の中に押しとどめていました。しかし、後世に二度と同じような戦争が起きてはいけないと思い、重く、苦しく、つらい集団自決についての証言を始めたのです。

 だから、集団自決における日本軍の強制の記述を削除するということは、沖縄の人々の戦争で負った悲しみを完全に無視するもの以外の何ものでもありません。さらに、それは過去の戦争を美化し、新たな戦争を起こそうという意図で行われたとしか思えません。

 

続きはこちら・・・
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by kohtaboy_gabihan | 2009-10-17 13:17 | 戦争/ 軍隊/ 歴史

8月15日と6月23日 後編

 平和の礎には慰霊に来ている人が大勢いましたが、どの人に声を掛けていいのかわからず迷っていました。そうしていると、亡くなった方の名前を探しているおばあがいたので、僕らはその人の名前を一緒に探すことにしました。

 亡くなったのはお兄さんで、名前を見つけると、おばあは震える手でお兄さんの名前をさすり、お祈りをしました。その光景を見た時、僕は胸がつまり、次の言葉が出ませんでした。

 おばあの方は、いきなり男2人が名前を一緒に探しますよとやってきて、何も言わずに自分のそばにいるので、怪しいと思ったのか、お祈りをしてすぐに帰ってしまいました。

 本当ならもっとゆっくりお祈りをしたかったはずなのに、僕らがずっといることで、おばあの居心地を悪くさせてしまったことに申し訳なく感じながらも、次の人を探すことにしました。

 今度は、車いすを孫に押してもらいながら、慰霊に訪れていた81歳のおばあに話しかけてみました。

 そのおばあは、祖父母を沖縄戦で亡くしたということでした。祖父の方は、琉球舞踊の有名な先生で、当時80歳ぐらいだったそうです。

 おばあは、沖縄戦の時は17歳で、母親や姉妹と共に熊本に疎開していたそうです。疎開する時に、おばあは祖父母に、一緒に熊本に疎開しないかと言いましたが、祖父母は「わしらは芋の根っこを食べてでも、沖縄に残る」と言って、断ったそうです。そして、祖父母は壕に避難していましたが、戦争の犠牲となり、遺骨は未だに見つかっていないと話していました。

 僕はその話を聞いた時、とても深い悲しみに襲われ、何とも言えない気持ちになりました。おばあの祖父母は、非常に無念の思いでこの世を去ったんだろうと思います。

 80歳になって熊本に疎開しても、沖縄と環境は違うし、戦時中なので、無事に生きて帰ってこれるかわかりません。そうだとしたら、やはり最後は自分の生まれ育った土地で、人生を締めくくりたいという気持ちになると思います。しかし、その人生の最後を、悲惨な戦争によってつぶされてしまったのは、本当に不本意なことだったはずです。

 また、おばあが熊本から帰ってきた時、沖縄の光景はどう映ったのかと思いました。

 沖縄戦では、当時約60万いた人口の4分の1の人々が犠牲になりました。熾烈な戦いにより、野や原も全てが焼け焦げていたと言います。

 おばあは当時17歳でしたから、64年たった今も当時の光景はよく覚えているだろうと思います。

 僕らがおばあの話を聞いていた時、何回も沈黙になるときがありました。その時、おばあは車いすに座りながら、祖父母の名前をじっと見つめて、その手は少し震えていました。

 そのおばあの姿を見て、64年たった今も戦争の悲しみは消えないし、おばあはその悲しみをずっと背負って生きてきたんだということを実感しました。

 聞き取り調査を終えた後も、後味の悪さと悲しく、やるせない気持ちがずっと続きました。

 また、この日は平和祈念公園にたくさんの修学旅行生が訪れていました。彼らは、ガイドに案内され、平和の礎でお祈りをしているおばあたちの横で、ガイドの説明を聞いていました。そのガイドは、慰霊をしている人達のことは全く説明せず、ただ旗を持って平和の礎について簡単に案内しているだけでした。

 その光景を見て僕は、「平和の礎は観光地なのか?そんな説明で修学旅行生に、慰霊にきている遺族の人達の思いがわかるのか?それで一体、沖縄の戦争の何がわかるのか?」と思い、とても残念な気持ちになりました。

 平和ツアーを通じて、戦争をなくすためには、戦争の犠牲になった人達やその遺族の悲しみを、多くの人が受け継ぎ、分かち合っていかなければいけないことを痛感しました。それが、本当の慰霊ではないかと思います。もし、この悲しみが忘れ去られてしまったら、また戦争が繰り返されるでしょう。

 同じ「日本」でありながら、沖縄と本土(沖縄県以外の「日本」)では、アジア太平洋戦争の終戦日の迎え方が大きく異なります。

 ここ最近、沖縄では、5年前の2004年8月13日に起きた沖縄国際大学における米軍ヘリ墜落事件に関する記事が、たくさん書かれています。おそらく本土では、この事件に関してはほとんど報道されていないと思います。また、戦後64年たった現在も、遺骨収集は行われています。

 一方、本土では、昨日8月15日に小泉・安部元首相らが靖国参拝を行いました。さらに、アジア太平洋戦争を含む日本の侵略戦争を美化してしまうような内容の中学の歴史教科書が、横浜市で採択されました。

 戦後64年たちましたが、今一度「あの戦争は何だったのか?」ということを学び、考え直す必要があります。そこから、戦争のない世の中にどうやったらできるのか、一人一人が考えなければなりません。

※「あの戦争」について学ぶためのおすすめの本
 『未来をひらく歴史-東アジア3国の近現代史-』、日中韓3国共通歴史教材委員会編、高文研、2005年、本体価格1600円
 東アジアの近現代史を日本・中国・韓国それぞれの民衆の立場から書かれており、とてもわかりやすく、勉強になる本です。
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by kohtaboy_gabihan | 2009-08-16 13:11 | 戦争/ 軍隊/ 歴史

8月15日と6月23日 前編

 今日、8月15日は、アジア太平洋戦争の終戦記念日です。全国各地で慰霊祭が行われ、多くの人々が先の戦争に思いをめぐらす日です。

 一般に、8月15日は「終戦の日」と思われていますが、実際には、この日は昭和天皇がラジオ放送を通じて、敗戦を知らせた「敗戦の日」です。

 では、正式な「終戦の日」はいつかというと、アメリカ軍艦の艦上で降伏文書の調印式が行われた9月2日です。

 しかしながら、沖縄での終戦はもっと早く6月23日です。なので、沖縄では6月23日を、「沖縄戦終戦の日」、「慰霊の日」として、県内各地で慰霊祭が行われます。

 僕がこのブログを開設したのも6月23日で、一番最初の記事で、沖縄の慰霊の日のことについて少し触れました。

 そこで、今日はその日のことについて、もう少し詳しく書きたいと思います。

 慰霊の日の2日前の6月21日に、辺野古のテント村で企画した平和ツアーに参加しました。テーマは、「慰霊塔の碑文から何を学ぶべきか」ということで、沖縄本島南部の慰霊塔を巡りました。

 まず、最初に行ったのは、摩文仁(まぶに)の丘で、そこには沖縄戦を指揮した牛島中将らを祀った黎明の塔や、各県ごとの兵士の慰霊塔があります。それらの慰霊塔の碑文を読むと、ほとんどは「祖国のためによく戦った」という意味のことが書かれており、犠牲になった沖縄の人々について書かれてあるのは、1つか2つくらいしかありませんでした。

 中には、「戦後の日本が繁栄したのは、祖国のために戦った兵士達のおかげだ」という、戦死を賞賛・美化してしまうような碑文まであり、驚愕しました。

 アジア太平洋戦争を体験した誰もが、「二度と戦争は起こしたくない」という思いで慰霊塔を作り、戦争の犠牲になった人達の冥福を祈った/祈っているはずなのに、それらの碑文をよく読むと、あの戦争への反省がないどころか、また新たな戦争を引き起こしてしまうような内容が書かれている碑文があることに驚き、やるせなくなりました。

 その後、何ヵ所か別の慰霊塔を見てまわった後で、最後に平和祈念公園にある平和の礎に行きました。平和の礎には、敵・味方、加害者・被害者の別なく、24万人以上の戦没者の名前が刻まれています。

 ちょうどその日は、慰霊の日の前の日曜日ということもあって、多くの人が慰霊に訪れていました。

 そこで、平和ツアーに参加した人達は、1人か2人に分かれて、慰霊に来ている人達に聞き取り調査を行いました。

 はじめに、ツアーガイドのおじさんが、聞き取りの方法を教えてくれました。まず、慰霊をしている人の斜め後ろぐらいに行って、「どの方が亡くなられたんですか?」と聞き、その後は「どういう方だったんですか?」というように、亡くなられた方について聞いていけば、いろいろと話してくれるということでした。

 僕は、戦争の傷を負っている人達に対し、いろいろと聞くというのは、さらにその人達の傷口を広げてしまうことになるんじゃないかと思い、あまり乗り気ではありませんでしたが、ツアーに参加していた大学生と一緒に聞き取り調査をしてみました。

 後編に続く・・・
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 摩文仁の丘から臨む海
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by kohtaboy_gabihan | 2009-08-15 15:21 | 戦争/ 軍隊/ 歴史