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海と山を結blog☆


山は海に流れ流れて、海は山に降りそそぐ。全てのいのちはめぐりめぐる。
by kohtaboy_gabihan
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辺野古の新基地建設問題 part 4

 海上に建つ単管やぐらにも、冬の北風は容赦なく吹きつけました。施設局は隙あらば建設着工を強行してくるため、いかなる時でも油断はできませんでした。

 作業船が単管やぐらに向かってくる。やぐらに緊張がはしる。まず、阻止態勢をとり、作業船の横付けを阻む。そして、水温の低い冬の海に飛び込んで作業を阻止することもたびたび。

 連日、日が昇る前に出港し、日中を海上の阻止行動に費やしました。日常生活は犠牲にせざるを得ませんでした。度重なる阻止行動の疲れによって、体力、精神力はともに限界を超えていました。

 2005年4月下旬、施設局は自らが決めた約束(ジュゴンの生態に配慮して、夜間作業はしない)を破って、夜間から未明にかけて作業をし、単管やぐらの周囲に進入防止の金網を張り巡らせました。

 そのため、阻止行動をする人たちは、金網をよじ登ってやぐら内部に入りました。その日からは夜間も含めた24時間の海上阻止行動を開始しました。24時間体制は、その後40日間続きました。

 2005年9月2日、施設局は台風対策という理由で、全ての単管やぐらを撤去しました。

 単管やぐらは、9ヵ月という長期間にわたり、海上に設置されていたため、さびついて修理もできなくなり、撤去せざるを得なくなっていました。施設局が当初の辺野古沖案で計画していた63箇所のボーリング工事は結局、1箇所も着工させなかったのです。

 命を守る会とヘリ基地反対協議会が長きに渡って止め続けてきた基地建設。そして、日本全国、全世界に広まった基地建設を止める行動によって、辺野古沖案を事実上断念させることに成功したのです。

 これは、平和を願い、行動してきた人たちの大きな成果です。

 ところが・・・
辺野古の新基地建設問題 part 4_a0131573_14344575.jpg

 辺野古の浜と米軍基地キャンプシュワブを隔てるフェンス。多くの人が平和への願いを布に書いて、フェンスに結んでいきました。フェンス奥には、米軍の監視カメラが設置されています。

# by kohtaboy_gabihan | 2009-07-05 14:42 | 辺野古新基地建設問題

辺野古の新基地建設問題 part 3

 施設局は、何度も予告なしに辺野古へやってきて、基地建設を着工しようとしました。漁港手前での話し合い(説得)は毎回長時間に及びました。施設局は5ヵ月の間に32回来ましたが、座り込みによって全て押し返しました。この間、辺野古近くまで機動隊がやってきて、待機していたこともありました。テント村の人たちは、毎日朝5時頃から座り込みを始め、毎回話し合いが終わるたび、安堵すると同時に、次は機動隊が投入されるかもしれないというプレッシャーを感じていました。

 辺野古で座り込みが続く中、2004年8月13日、宜野湾市にある普天間基地の米軍ヘリが、沖縄国際大学構内に墜落炎上するという大事件が起きました。「こんな危険な基地は即時閉鎖せよ」との世論が盛り上がるのに対して、日本政府は「危険な普天間基地は早く辺野古に移設する」と県民を愚弄し、道理に合わない理屈をもって、辺野古新基地建設を急がせたのです。しかし、この米軍ヘリ墜落事件のことは、同じ時期にアテネオリンピックが開催されていたために、本土ではほとんど報道されず、本土に住む多くの人が知らぬまま、新基地建設の準備が進められていったのです。

 米軍ヘリ墜落事件から半月後の2004年9月9日、施設局は基地建設の強行を発表しました。それに対して、日本全国から400人を超える人たちが、基地建設を阻止するために座り込みテントに結集しました。

 しかしながら、施設局は400人以上が座り込む辺野古漁港へ強行突入せず、米軍基地キャンプシュワブの浜から出航し、辺野古海上で作業を開始しました。この日からカヌーや船、海への飛び込みによる、完全非暴力による基地建設海上阻止行動が始まったのです。

 連日必死に阻止行動を展開しましたが、施設局の暴力的な建設作業によって、2004年11月下旬、海上に基地建設のためのボーリング工事用の単管やぐらを4つ建てられてしまいました。やぐらは、縦横4m、海面からの高さが5~6mにのぼるものでした。それからは毎日やぐらの上で必死に抵抗し、ボーリング工事を止め続けました。

 2004年11月16日、沖合のボーリング工事を強行するため、施設局の大型機重船が辺野古の海に現れました。しかし、カヌーや船、海に飛び込んだ人たちによって、それを追い返しました。

 その後11月20日には、施設局がスパット台船(海上でボーリング工事をするための大型船)の設置を強行しますが、海底に鉄杭を下ろして設置するため、大きなサンゴ礁破壊を及ぼすことになります。サンゴ礁の破壊は国内外の批判にさらされ、結局、台船は引き揚げていきました。スパット台船はその後2回にわたって設置されようとしますが、いずれも阻止しました。

 2004年12月、単管やぐらにおける攻防が激しくなりました。海上阻止行動をする人たちの中には、施設局の暴力行為によって、病院に搬送される人も出るようになりました。

 そうした状況を知った近隣の海人〔ウミンチュ〕(漁師)たちは、辺野古の海、沖縄の海を守るために、海上阻止行動に加わりました。この海人の参加によって、阻止行動は大きく好転していったのです。

 part 4に続く・・・
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辺野古の浜から見る米軍基地キャンプシュワブ

# by kohtaboy_gabihan | 2009-07-04 13:52 | 辺野古新基地建設問題

辺野古の新基地建設問題 part 2

 それらに加えて、辺野古近海は、「ジュゴンの海」としても知られています。辺野古の海には、ジュゴンのエサとなる海草藻場が広がっており、それを食べにやってくるのです。

 沖縄本島北部の東海岸は、ジュゴンの生息分布の北限の位置にあり、辺野古周辺の海域は、絶滅の危機にあるジュゴンの棲む海なのです。

 そうした状況の中、1997年1月27日、辺野古の人達によって、「命を守る会」が結成されました。その日から、辺野古の海に基地を造らせないための、おじいやおばあたちの座り込みが開始され、8年もの間毎日続きました。

 座り込みをしていた93歳のおばあは、「この海の恵みで子供たちを育ててきました。宝の海を子孫に手渡すことが私たちの努めです」と語りました。

 そして、1997年12月21日、辺野古が属する名護市の人々に新基地建設の是非を問うための名護市民投票が行われました。日本政府から市民に対して、「基地賛成」への誘導工作があったにもかかわらず、基地建設に対して市民の過半数(52%)が「反対」の意思を示しました。

 しかしながら、名護市長は市民の意思を無視して、独断で基地建設を認めてしまったのです。

 この市民投票を推し進めた「名護市民投票推進協議会」は、「ヘリ基地建設反対協議会」になり、「命を守る会」と共に辺野古の闘いの中心となりました。

 「命を守る会」の座り込み開始から6年半が過ぎた2003年4月に、日本政府は基地建設の事前調査を強行しました。その事前調査を止められなかったことを教訓にして、今後行われるであろう基地建設のボーリング工事(地盤や地質を調査するために地面に穴をあける工事)を止めるために、2003年7月から辺野古の浜で土曜集会を始め、話し合いや浜清掃、カヌー練習などを行いました。

 翌年、2004年4月19日未明、那覇防衛施設局は辺野古漁港に作業ヤードを造ろうとしましたが、集まった人たちで押し返しました。
 
 この日から基地建設を止めるための、完全非暴力による座り込み阻止行動が始まったのです。

 part 3に続く・・・
辺野古の新基地建設問題 part 2_a0131573_1403457.jpg

 テント村から見える辺野古の海

# by kohtaboy_gabihan | 2009-06-30 14:06 | 辺野古新基地建設問題

辺野古の新基地建設問題 part 1

 前置きが長くなりましたが、いよいよ沖縄の米軍基地問題について書いていきたいと思います。
 まず、辺野古(へのこ)の新基地建設問題のこれまでの経緯を書きます。

 知っている人も大勢いると思いますが、沖縄は「観光の島」であると同時に、「基地の島」という側面もあります。それが露骨に現れたのは、2001年のアメリカで起きた同時多発テロの時です。あの時、沖縄の米軍基地も狙われるかもしれないということで、観光客が激減しました。

 沖縄県の面積は、日本全体の国土面積の0.6%に過ぎないにもかかわらず、在日米軍専用基地の約75%が集中しています。しかも、沖縄本島の約2割が米軍基地に占拠されています。

 このため、住宅地域への米軍機墜落や被弾事件、米兵による暴行、戦闘機などの爆音被害、自然破壊などは跡を絶たず、沖縄の人々は60年以上にわたって、米軍基地の存在に苦しめられています。

 こうした中、辺野古の新基地建設の話が出てきたきっかけとなったのは、1995年に起きた米兵による少女暴行事件でした。この事件を機に、沖縄の人々の積もり重なる怒りが爆発し、事件から1ヵ月後の1995年10月21日に県民総決起大会が開かれ、8万5千人もの人々が結集しました。これを受け、日米両政府は沖縄県民の怒りを抑えるため、翌年、普天間基地の全面返還を発表します。

 日米両政府は、SACO(沖縄における施設及び区域に関する特別行動委員会)を作り、1996年12月2日のSACO最終報告で、普天間基地を全面返還する代わりに、その代替基地として、「沖縄本島東海岸沖」に新基地を建設すると発表しました。

 そして、その基地建設場所として決まったのが、辺野古沖でした。新基地は、辺野古の海を長さ約2500m、幅約730mにわたって埋め立てて作られるという、とても広大なものでした。もし海が埋め立てられてしまえば、周辺の海域は破壊され、サンゴや豊かな魚介類は死滅し、さらに、辺野古の浜から見える水平線は基地の陰になり、完全に見えなくなります。

 基地からは毎日ヘリが飛び立ち、日夜爆音をまき散らし、住宅地を飛び交います。そして、基地では毎日、人を殺すための訓練が行われ、米兵たちは世界各地の戦争に向かっていくことになるのです。
 
 次回に続く・・・
辺野古の新基地建設問題 part 1_a0131573_2222852.jpg
←辺野古の浜から見える海

# by kohtaboy_gabihan | 2009-06-28 22:17 | 辺野古新基地建設問題

米軍基地建設に反対する理由

 基地問題について書く前に、なぜ僕が辺野古、高江の新基地建設に反対するのかを書きたいと思います。

 基地建設に反対する活動というと、イコール「平和活動」ととらえられますが、僕はあまり「平和」「PEACE」という言葉を積極的に使いたくありません。「平和」という言葉は定義があいまいで、使う人、使う状況によって、様々に、そして都合よく使用され、解釈されてしまうからです。

 「平和」というと、一般的には、「暴力がないこと」、「人を殺さない、殺されないこと」、「戦争がないこと」などがあげられると思います。

 しかし、「人を殺さない」世の中を実現することは、簡単なことではありません。特に、「個人間の殺人」をなくすことは、とても難しいことだと僕は思います。「個人間の殺人は絶対にいけない」と言ってしまうと、テレビの金曜サスペンス劇場などの殺人もののドラマは放送禁止にしなければいけないし、殺人ものの小説も発刊禁止にしなければいけなくなります。「人殺しはいけない」と思っていても、そういったドラマや小説を見たり、読んだりしていると、殺す側の気持ちも理解できます。それは、殺される側の方にも、相手に殺したいと思わせてしまうほどのことをした落ち度があるからです。だからと言って、「人を殺してしまうことは仕方がない」と言うつもりはないし、「人を殺すことのない、そして殺されることのない」世の中にしていかなければなりません。なので、サスペンスドラマや小説を通して、「人を殺さない、殺されない」ためにはどうしたらいいのかを学ぶ必要があるのだと思います。

 ここでは、「個人間の殺人」をドラマや小説を例にして書きましたが、それ以外にも子供への虐待死や、介護疲れによる被介護者への殺人など、今の例では説明できない別の問題もありますが、それは別の記事で書くことにします。

 ただ、「集団間の殺人」、紛争や戦争などがありますが、これは絶対にいけないことだと思うし、なくすことができると考えています。基本的には、相対立する政府間の中が悪くなり、最終的に戦争が勃発しますが、その国に属する国民であるというだけで、戦争に駆りだされ、なぜ会ったこともない、話したこともない人達を殺さなければいけないのか、とても疑問に思ってしまいます。

続きはこちら

# by kohtaboy_gabihan | 2009-06-26 15:24 | はじめての方へ